昭和39年12月22日 夜の御理解



 今朝から、久富先生が御神夢を頂いておられます。それに「この度の事は芋ご飯」と頂かれた。「この度の事は芋ご飯。この次が黄金ご飯がままになる時」ともう粟のちっさな粟ご飯を頂かれたという事です。この度の事はねご飯。いわゆるその代用食にちょっと毛が生えたみたいなようなもじゃないでしょうかね。「この次が黄金ご飯がままになる」と。とういてそのまあ五穀のうちで。
 家では米のご飯や麦のご飯よりもいくらか。格が落ちましょうけれども、だんだん本当の事がままになっていくという、おかげになっていかなきゃならないと思う。だから椛目の信心が、そういう風にして、例えば進んでいくのでございますから。そういうおかげが頂かれるような信心に、なっていくのでございますから。みんなもそのようにその信心にいつもこう便乗しておらなければいけないということですね。
 本当に芋ご飯的な事でもいいですね。ままになれば。ね。ひもじい思いをせんですむという事は大変な有り難い事です。これはご飯の事だけではありません。一切がです一切がその程度にままになるという事ですから。こんな有り難い事はないでしょう。次には黄金ご飯がままになると、が求め誰も求めないものはなかろう。ね。いわゆる黄金黄金にその不自由せんですむようなおかげが頂けたら。
 本当に皆がこれは願っていないというものは一人もあるまいと思う。だからそういう時代が来るから、皆が頂けれるかというとそうじゃないのです。いわゆるそれに便乗していきよらなければいけんですね。ここニ、三日どうも風邪具合が悪かって今日はいよいよ悪いんですね。今日はもう水鼻が出てそれは出てしょうがないです。そこのそこのところでした。今日は昼から古賀先生と色々話し。
 「どうしてこげん水鼻がでるゃろうか」ち言うた。「そりゃ親先生その、体内のいわば、残骸が、残骸ですよと。ね。ですからいうなら、自戒作用なんです。もうめぐりがいわばその壊れて出てきとる姿が鼻水なんですよ」と「はぁほんにそうじゃなあ、それどころじゃなかろう、してみると鼻水が出るでん有り難うございます。有り難うございますといわないけんねち。」いうてから話した事でした。
 「それならいっちょあんた。古賀先生あんたもいっちょ咳が出たっちゃ、有り難うございます有り難うございますいわないかんよ」。たんごろ出た時でもいつもたんが出るわけですね。ぜん息ですから、だからたんが出るときも、やっぱり自戒作用である。ね。いわ咳が出るのも。いうなら残骸なのである。もう亡骸である。自分もいうてから本当にそうでしょうがと。私に教えてからまた教えられておると言うて。
 本当に人の事は自分の事は気がつかんのですよね。確かにそうなんです。「やれ痛や今みかげを」というてという事ですから。やっぱ水鼻がでるなら水鼻がでてやれ痛やですから。ね。残骸ですからこれがでなければ大変な事ですから。ね。たんごろならたんごろが詰まってでなかったら大変な事なんです。ね。けがをする血が出るということなんかでもこれは同じ事なんです。ね。
 ほんにそういやあくびが出ても。お礼を申し上げろと神様が仰った事があった。ね。本当にお礼を申し上げる、信心にならにゃいかん。丁度そんな話をしておる時に、ある方が参ってみえて。あるお届けにですねお店の方達が。その三角関係が生じてからその、自分達の知らぬまに、3人ながらに喧嘩をされてから。出ていかれたわけですね。お店はてっきり困るというわけなんですね。ほんで私はその事を話すんですよ。
 「これはもうあんた、残骸が出ていきよるっちゃけん、お礼を申し上げなさいち」いうてそう「残骸が出て行きよるちどういう事ですか」ち「ちゃんとこの自分の胸に手を当てごらんなさい」ち。その方もやっぱりそんな事で。その結婚にゴールインされた方なんです。ね。「それからお父さんの方達の事を考えてごらんなさい」ち。て言うたら「そういうやですね。うちはじいもじいの時代からそうです。知っておる限りですね。
 やっぱそのめぐりがあった」とこういわれるです。「してみるとその店員さん達までそれなんだから。いわばそこのそういう家のめぐりの、いわばおとり払いを頂きよるのであり自戒作用である。残骸が出て行きよるとじゃから。ちった忙しかろうばってん、有り難うございます」「それで先生あの人どんでていきましてばってんからですね。その出て行っても丁度良いぐらいのお繰り合わせを頂いておる。
 他の事でおかげを頂き、おらその手人数のそのそれで、困る事がないようなお繰り合わせを頂いておる」というておられます。ね。そういう中にも神様の働きがあるのですからね。ですからこれは、私いつも申しますようにもうとにかく。「この方の道は喜びで開けた道だから喜びでは苦労はさせぬ」と仰るのはです。そういう一つの道理というものですかね、いうならそういう理屈ですか。そういう分け合いがあるのだから。有り難く有り難いと受けなければいけんという事なんです。
 どのような場合でもめぐりのおとり払いであり。残骸が逃げるのであり、自戒作用が行われておるのだから。有り難いのであるという事。そういう例えば信心にいよいよ焦点を置いていかなければならん。ね。同時に絶えず例えばここでいうなら私が中心ですから私の信心に、いつもこの便乗しておる。いま先生がどういう信心に変わっておいでおられるという事が分かったら。そこんところで自分も肉迫していくというような、信心がなされておからなければです。
 愈々ここが芋ご飯のままになると言った様な。おかげになってもそのおかげに付いて来る事が出来ない。さあ椛目は黄金の次が、黄金のご飯がままになる時という事になってもです。やはりそれに便乗する。おかげだけに便乗するというわけにはいかん。ね。信心も同じ。信心もそれにつながっておらなければ、そういうおかげそういう働きを自分達の上に頂く事は出来ないと私は思うんですね。どうでもおかげを頂かなきゃいけません。